こんにちは。今日は日本のフォークソング界に新たな風を吹かせた歌手、吉田拓郎についてお話ししていきたいと思います。

吉田拓郎とは

吉田 拓郎(よしだ たくろう)は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優。1946年〈昭和21年〉4月5日生まれ。鹿児島県伊佐市出身で、広島県広島市育ち。竹田企画、avex trax(レコードレーベル)に所属。

フォーライフ・レコードの第2代社長を務めました。奥さんは森下愛子さん、元妻は四角佳子さん、浅田美代子さん。日本のシンガーソングライターの草分け的存在。1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手。

また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において重要な役割を果たした。「ニューミュージックを代表する音楽家」とも呼ばれた。

吉田拓郎の音楽家になるまで

幼い頃、同じ部屋で生活していた姉の影響で、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことから、拓郎も大きな影響を受けます。1955年に両親が別居し、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居します。9歳小学校3年から広島県広島市で育っています。拓郎は、小児喘息の持病があり、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供でした。

このため家にいることが多く、母に安価なウクレレを買ってもらい、中学校に入って音楽を始めています。1962年、広島皆実高校に入学友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを見て、衝撃を受けました。

その後、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当しました。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡したとのことです。
拓郎は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる、『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と言っています。

広島修道大学に入学し、カントリー&ウエスタン部応援団に入部しました。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成します。

アマチュア期には、バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨きます。ボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱します。その時、全国3位となります。

和製ボブ・ディラン」と紹介され、広島市内の繁華街・本通りを歩くだけで「拓郎だ! 拓郎だ!」と、人だかりができるほどの広島で有名人となりますが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判を受けました。

その後、単身上京します。1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結びます。四角佳子さんと結婚式を挙げ、「町の教会で結婚しようよ」など、結婚というライフイベントを、自分達らしく気楽に捉えるんだという、新価値観に溢れた若者の新しい生活様式として表現しました。

この価値観はブライダル業界にも大きな影響を与えました。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げます。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークでしたが、この曲をキッカケに音楽として認知されるようになっていきました

その後「旅の宿」もヒットし、作曲の依頼が舞い込みます。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」などを提供していきます。フォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まっていきます。

ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていきました。拓郎は、1974年森進一に「襟裳岬(えりもみさき)」を提供します。その後、この曲は、日本レコード大賞を受賞します。当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸しました。

1976年4月にフォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲します。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べています。1977年、フォーライフの社長に就任します。

1986年、日本民間放送連盟は民放ラジオ放送30周年を記念して、この30年間を代表するスーパースターベスト10を選び、総合ベスト10で、拓郎は、ビートルズ、長嶋茂雄、美空ひばり、チャップリン、王貞治、エルビス・プレスリーに続く第7位に選ばれました。

1986年12月に森下愛子と結婚。1988年に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立し、その頃から、テレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演します。

2022年、全ての音楽活動から引退する意思を明らかにしました。同年6月29日発売のアルバム『ah-面白かった』が最後のCDリリースとなり、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も12月16日で終了しました。同年、7月21日に『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』が放送され、最後のテレビ出演となりました。2023年2月18日に『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』に出演しました

批判された時期

吉田拓郎の音楽人生は、すべてが順風満帆にいってたわけではありません。
彼は自身の詞について「作詞ってそれまでは月がどうした、星がどうとか、花鳥風月みたいなので大袈裟な詞が多かったんだけど、急に自分の身の回りのことばっかりをテーマにするようになったから絵日記みたいでつまんないって言われた時期があった」と回想しています。

自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは「軟弱な歌を歌っている」「商業主義」「裏切り者」「堕落した」などと批判され、武道館で行われたジョイントコンサートなどの会場では激しい帰れコールを浴びせられました。石を投げられることもありました。またビール瓶などモノを投げつけられ一曲も歌わず、本当に帰ることもあったそうです。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だったとのことです。

しかしこの批判は、人気があったからこそ生まれていたようです。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかったそうです。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれました。

反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質というフォークファンからは大きな批判を浴びていましたが、拓郎は日々の生活の中で感じた個人的な心情を、日常的な言葉で歌ったに過ぎません。閉鎖的なフォークソングに新たな風を吹き込んだのは吉田拓郎でした

終わりに

罵声を浴びせられ、石を投げられ、ビール瓶を投げ続けられながらも、音楽家として活動し続ける彼の意思には頭が下がります。これが、真の音楽家なんでしょうね。こんな音楽家、現在他にいるだろうか?と思わずにはいられませんでした。自分の素直な想いを表現し続ける、強い方だということが分かります。

ほんとに素晴らしい音楽家です。2022年で音楽界から引退されてますが、2023年2月21日にタレントでファッションデザイナーの篠原ともえさんのインスタグラムで、吉田拓郎との写真を公開しています。現在も彼の活動を応援し続けるファンは多くいるとのことです。