こんにちは! 「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉を発したのは徳川家康、というのは、もうあなたもご存じかと思います。 彼は、織田信長、豊臣秀吉らと並び称される「三英傑(さんえいけつ)」の一人です。日本の戦国時代において天下統一へ導いた戦国大名です。
そんな日本に名の知れた徳川家康ですが、彼の面白いエピソードがいくつかあります。そのエピソードをご紹介していきたいと思います。

徳川家康とは

徳川家康は天文11年12月26日(1543年1月31日)に生まれました。 彼は、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の武将で、江戸幕府の初代将軍です。彼は三河国(今の愛知県)の出身で、幼い頃は竹千代(たけちよ)と呼ばれてました。

幼少期を織田氏、次いで今川氏の元で人質として過ごしました。その後、家康は元服時(当時の成人の時)に今川義元より元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改名しました。そして、家康は今川氏から独立し、織田信長と清洲同盟を結びました

この同盟は、それぞれの領地を拡大するための同盟だったそうです。 家康はその後、織田信長と協力し、武田家を滅ぼしました。織田信長が没した後、家康は甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヵ国を領有しました。その後、豊臣秀吉と対立しましたが、次男の於義丸を養子に贈ることで和睦しました。
1600年には「関ケ原の戦い」にて東軍を率い、石田三成率いる西軍を破り、天下を統一しました。1603年に朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を成立させました

家康はその後、駿府(現在の静岡)に移り、大御所として幕府の制度作りに尽力しました。 家康は1616年に駿府城で亡くなりました。

尾張徳川家と水戸徳川家

徳川家康は16人の子供をもうけ、その子孫は現在も続いていて、徳川宗家徳川御三家徳川御三卿家などに分かれています。 いずれも徳川家康の子孫によって設立された家系で、徳川将軍家に次ぐ地位を持つ「御三家」の一部です。

尾張徳川家

徳川家康の9男、徳川義直(1600~1650)が設立しました。義直は学問を奨励し、尾張徳川家の基礎を作りました。

水戸徳川家

徳川家康の11男の末男、徳川頼房が設立しました。水戸徳川家は、尊皇思想(王を尊崇する思想のこと)に貫かれ、皇統を明らかにして南朝を正統としたことなどを特色とする「大日本史」の編集を行いました。水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の諡号(しごう)が贈られています。 これらの家系は、徳川将軍家とは別に存在し、それぞれが独自の歴史と影響力を持っています

尾張徳川家と水戸徳川家は、徳川家康の子孫という共通の起源を持ちつつも、それぞれが異なる役割と責任を果たしてきました。 彼らは名古屋城を居城とし、61万9500石の石高を領し、尾張国や美濃国の一部などを領地としていました。

尾張は現在の愛知。美濃は岐阜のこと。尾張徳川家からは将軍を出すことはありませんでした。現在、22代徳川義崇(よしたか)(1961~)が美術館の館長を務めています。それぞれが文化財の保護に力を尽くしました。

徳川宗家の現当主は19代目の政治経済評論家の徳川家広(いえひろ)氏です。 水戸徳川家の現当主は15代の徳川斉正(なりまさ)氏です。ただし、紀州徳川家は現在断絶の危機に瀕しています。

徳川家康の性格と面白エピソード

  • これは誰もがご存じの、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と言ったように、非常に忍耐強い性格で、現実的な人でした。
  • 彼は自身の健康に非常に気を使い、自ら漢方を調合して服用していたと言われています。
  • 若い頃の家康は負けず嫌いで、血気盛んな一面がありました。しかし、彼はその短気さを冷静に制御する能力も持っていました。
  • 彼は約束事を守る律義さと義理堅さで知られていました。彼は家臣に対しても公平で、その忠誠心は家臣たちからの信頼を得ていました。
  • 彼は非常に倹約家で、贅沢を嫌い、質素な生活を心がけていました。
  • 彼は自身の健康に非常に気を使い、自ら漢方を調合して服用していた健康オタクでした。
  • 家康は部下の育成に熱心で、その結果、徳川軍は日本一強い軍団に成長することができました。
  • 彼は女性選びにもストイックで、外見よりも内面や大人の魅力を重視していました。
  • 彼は幼少期から青年期までの10年間を人質として過ごしました。彼は6歳から8歳まで織田家の人質となり、その後19歳まで今川家の人質となりました。
  • 彼は武田信玄に対して大敗をしました。この敗北は家康にとって大きな屈辱でしたが、その経験から学び、それを生かすことができました。
  • 彼は織田信長や豊臣秀吉といった時代のトップに後れを取りつつも、堅実な外交戦略により力を蓄えました。また、彼は豊臣秀吉が天下を統一したとき、何としても豊臣秀吉よりも長く生きなくてはならないと考え、健康に非常に気を使いました。 これらの性格が天下統一と導いたのですね。 女性選びも内面を重視してたって、素敵ですね。

徳川家康の健康オタクについて

彼の健康オタクは奥深かったようです。 2冊の書を好んで読んでいたようです。 『本草綱目(ほんぞうこうもく)』という書を読んでいたそうです。

これは、中国の百科全書的な本草書で、明代の李時珍(1518年 – 1593年)が著しました。筆者は、本書の執筆にあたって26年の歳月をかけ、700余りの文献を調査し、自らの調査と合わせて約1900種の薬物について記載されたものです。

本書は、その規模からみて中国を代表する著作とされていて、本草学史上の重要な一冊です。また、本書は医薬学のみならず、植物学や動物学、鉱物学、化学に大きな影響を与えました。 日本には1607年(慶長12年)に渡来し、日本の本草学の発展に大きな影響を与えました。

和剤局方(わざいきょくほう)』は、中国の宋の皇帝徽宗(こうていきそう)の命で編集された医薬品の処方集で、大観年間(1107年 – 1110年)に初版が発行されました。この書物は全5巻で、297の処方が収められていました。 かなりの専門的な書を読んでいたようです。

健康を維持しようとした彼の気持ちが伝わりますね。

最後に

いかがでしたか?
彼の10年間の人質が天下統一への忍耐力を育てたのではないかということや、他にも彼の部下を思う気持ちであったり、彼の性格やエピソードのどれを読んでも、面白いものばかりです。
総合的に、彼の懐は大きかった人では?と思われます。

健康オタクも私と似てるところがあって、親しみを感じました。 贅沢を嫌い、質素な生活を心がけていました。というのは聴いたことがありますが、改めてそれを聞くと、贅沢に過ごしてる私たちから見て、尊敬に値する人ですね。
彼の死後、家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号を贈られ、神格化されました。そのため、江戸時代を通じて崇拝され続けました。大権現は、仏菩薩が衆生を救うために、仮の姿をとって現れる存在を尊び称える言葉です。

大権現は、仏の力を持ち、人々を守護し、救済する存在として崇められています。この言葉は、日本の仏教の信仰の中で特に重要な位置を占めています。 徳川家康は、神様となったのですね。 徳川家康に関するテレビ番組はこれまでいくつか放送されてきました。

  • NHK大河ドラマ「どうする家康」
    2023年に放送された大河ドラマで、主演は松本潤です。
  • TBS新春大型時代劇スペシャル「徳川家康」
    津川雅彦、緒形拳、千葉真一などが出演した時代劇です。
  • テレビ東京開局50周年特別企画「影武者 徳川家康」
    2014年に放送された特別企画です。 ほんとに偉大な方だということが分かります。

今後も徳川家康について取り上げられていく番組はあると思われます。
その時はしっかり見てみたいです。