日本の女王「謎多き卑弥呼」
こんにちは。 あなたも、小学生の時に卑弥呼について少しお勉強したかと思います。 卑弥呼は、不思議な人物だったという印象は、あなたの記憶にもあるのではないでしょうか?
実は、卑弥呼の名は、「古事記」や「日本書紀」には存在しないとされてます。 卑弥呼についての情報は、主に中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」から得られます。 卑弥呼が日本の歴史に登場しない一つの説として、卑弥呼が日本国内では別の名前で呼ばれていた可能性があるそうです。
「神功皇后(じんぐうこうごう)=卑弥呼」だと認識していた可能性もあるそうです。 今日はそんな謎多き卑弥呼と卑弥呼にまつわることについて、お話していきたいと思います。
「卑弥呼」とは
卑弥呼(ひみこまたはひめこ)は弥生時代の日本の女王であったとされてます。 卑弥呼の治世は、邪馬台国(現在の日本と考えられている地域)が大小30カ国ほどの国々が争っていた時期で、卑弥呼が女王として即位したことにより、この争いは収まったとされています。卑弥呼が女王に即位したのは、180~190年頃と考えられています。
卑弥呼は、建寧(けんねい)3年(170年)頃 – 正始9年(248年)『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』等の古代中国の史書に記されている「倭国(わこく)の女王」と称された人物です。倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時中国の南東にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称です。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説あります。
倭国は、7世紀後半に対外的な国号を「日本」に改めました。この変更は、ヤマト王権が成長し、倭という文字が国名に相応しくないと認識された結果だと考えられています。その後、倭国の領域は日本列島と同一視されるようになりました。 倭国の正確な位置や範囲については依然として議論されているようです。 卑弥呼は鬼道(きどう)に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せませんでした。
「鬼道」は、中国においての、シャーマニズム的な呪術のことをいいます。目に見えない神々や霊などと交信することによって、様々なことを知る占術をしていたようです。 卑弥呼は生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれたと記されています。本名も不明です。 卑弥呼が女王になった背景は、シャーマン(霊的な能力を持つ者)としての能力を持っていたことが一つの大きな理由でした。
「邪馬台国」とは
2世紀から3世紀にかけて日本列島に存在したとされる国の一つです。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされています。 邪馬台国の存在や位置については、中国の歴史書「三国志」の一部である「魏志倭人伝」に記述があります。
邪馬台国の具体的な位置については、今も議論が続いているようです。 九州説、畿内説、四国説など、複数の説が提唱されています。それぞれの説は、出土した遺物や地理的な特徴、歴史的な記録などに基づいています。
「魏志倭人伝」とは?
「魏志倭人伝」は、中国の歴史書『三国志』の一部です。この書物は、西晋の陳寿により3世紀末(280年~297年)に書かれました。 「魏志倭人伝」は、当時の日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて詳しく記述しています。特に、邪馬台国の女王であった卑弥呼の活動や、卑弥呼が魏から贈られた「親魏倭王」の称号などについて詳しく記されています。
ただし、「魏志倭人伝」に書かれている内容が必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているわけではないため、邪馬台国に関する論争の原因になっています
「倭国」とは
「倭国」(わこく)は、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時中国の南東にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称です。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説あります。 倭国は、中国の古代史書で記述されています。 倭国の領域は、隋書や北史では、東西に五カ月で、南北に三カ月とされています。これは、当時の交通手段(主に徒歩や馬)を用いて、その地域を横断するのに必要な時間を指しています。倭国が広大であったことを示しています。
倭国の政治勢力は、対外的に「倭国」を称し続け、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままでした。その後、国号は「日本」に変更されたともいわれてます。 魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていましたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れました。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定されたと言われてます。
「親魏倭王」(しんぎわおう)「金印紫綬」(きんいんしじゅ)について
卑弥呼は魏(ぎ)と国交を結び、239年に三国時代の魏から与えられた「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらいました。この交流は、大国の王に認められることにより、国内での地位を堅固なものにすることを目指したものでした。 「親魏倭王」は、中国の魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、西暦238年に与えられたとされる封号のことを指します。 『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼はこの年に大夫の高位の役職である難升米(なしめ)らの使者を派遣し、倭の皇帝に朝貢しました。 これは、中国との親交を深めようとしたと考えられています。
また、魏側も、卑弥呼が鬼道(神秘的な力)を使って国を治めていたとされ、その力を利用して皇帝の病を治すことを期待していたとも言われています。 この出来事は、卑弥呼が中国の魏との外交関係を築くために行った重要な一歩を示しています。 その返礼として、卑弥呼は「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と、この称号を刻んだ金印紫綬(きんいんしじゅ)を贈られました。
「金印紫綬」は、古代中国の制度で、特定の身分や地位を示すために与えられた印章(金印)とその印章を携帯するための組紐(紫綬)のことを指します。 「金印」は印章のことで、その材質は上から順に玉、金、銀、銅とされています。印章のつまみ部分には、魚、蛇、龍、虎、亀、羊、馬、駱駝などの動物の形や、鼻、瓦、橋の形など、さまざまな造形が施されていました。 「紫綬」は印章を携帯するための組紐のことで、その色により身につける者の身分を示していました。紫綬は、紫色を基調として、紫色・白色の2色で模様が織り込まれており、長さは約392cm、織り糸は240首(4,800本)が使用されていました。
卑弥呼と魏の関係について
「魏(ぎ)」は、古代中国の国名です。戦国時代に存在した国で、晋の六卿の一として勢力を拡大し、韓氏・趙氏とともに晋を滅ぼし、その領土を3分しました。また、魏は中国の三国時代に華北を支配した王朝で、首都は洛陽でした。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも呼ばれます。 卑弥呼は、邪馬台国(現在の日本と考えられている地域)の女王として記述されています。彼女は、魏の皇帝に対して使者を送り、親魏倭王の称号と金印を授与されました。
卑弥呼が魏に使者を送った理由については、邪馬台国が他の国(狗奴国など)との争いを有利に進めるため、大国である 卑弥呼と魏の関係について古代中国の史書『三国志』の一部である『魏志倭人伝』に記録されているようです。 卑弥呼が魏から贈られたとされる中国製の銅の鏡は、一般的に「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう、さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれています。この鏡は、古墳時代の早い段階で古墳に副葬されることが多く、縁の断面が三角形をしています。
日本全国で500枚以上が発見されており、そのうち400枚近くが中国製とされています。面径は平均20センチメートル程度。鏡背に神獣(神像と霊獣)の形があり、中国、魏の年号を銘文中に含むものは2点発掘されているそうです。 特に、卑弥呼が中国・魏に使いを送った「景初三年」(西暦239年)を銘文に持つ鏡があり、これが魏から卑弥呼に贈られた鏡であるという説が存在します。しかし、中国ではこの種の鏡は1枚も出土していないため、国産説も根強いです。
最後に
卑弥呼については調べれば調べるほど謎が深まります。 彼女の本当の正体は? ただ、シャーマン的な存在であるということだけは確かな様です。
『各国は共同して卑弥呼を立て王と為した』ともされることから、中国、日本を繋ぎながら、そして双方においても女王的な存在でもあったともされる感じがします。 今後も卑弥呼についての様々な研究は進んでいくと思われますので、新たな情報が出てくるのを楽しみにしたいと思います。