2024年大富豪の一人「柳井 正」
こんにちは。
今日は昨今大富豪として有名な一人、柳井 正(やない ただし)についてお話ししていきたいと思います。
柳井氏はユニクロを世界的なブランドに育てるための基礎を築いた方です。
ユニクロの店は私も以前結構足を運んでいました。
大富豪、実業家のビジネスに対する姿勢など、知るととても為になり役立ちます。
今日も楽しんで読み進めんで貰えたらと思います。
柳井 正とは?
日本の実業家、資産家。カジュアル衣料の製造販売ユニクロを中心とした企業グループ持株会社であるファーストリテイリング代表取締役会長兼社長。ユニクロ代表取締役会長。ジーユー取締役会長。
フォーブスが毎年発表する日本長者番付にて、2023年の首位にランクされました。総資産約4兆9700億円。
寄付も積極的に行われてます。
- 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震の義援金として私財から10億円を寄付
- 2019年、早稲田大学国際文学館の開館に伴う建物改築の費用、約12億円を全額寄付
- 2020年、早稲田大学とUCLAが連携して行う、日本文化研究のグローバル化に取り組むプロジェクト「柳井正イニシアティブ グローバル・ジャパン・ヒューマニティーズ・プロジェクト」の永続化を目的に、UCLAに対して約27億5,000万円の寄付
- 2020年6月24日、柳井は京都大学に個人として総額100億円を寄付
- ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授と本庶佑特別教授の活動に50億円ずつ寄付
かなり多額の寄付をしかも短い期間に積極的にされてきてる方なんですね。
柳井 正の経歴
1949年2月7日生まれ。山口県宇部市中央町出身。
父親は実業家でしたが、高等小学校を卒業し、家にお金がなかったため進学をあきらめ京都で飲食業をやっていた兄を頼って、洋服屋で働いています。後の小郡商事株式会社を設立しています。柳井氏は父親について、「義理人情に厚く、生業家業といった観点で仕事をし、企業家とか経営者といった観点はなかった。恐ろしかった。」と述べています。
母親の性格はおとなしかったようです。
柳井氏の子供時代は内向的でした。高校ではサッカー部に入っていますが、父親に、「いい大学に入ってほしい」と言われサッカーを辞めています。
普通の子で体育の時間など勉強以外の時間が楽しかったと言っています。中学校には歩いて1時間かけて通学、帰りに川で魚を釣ったり野球をしたりしていたそうです。
柳井氏が中学生になるころ、父は地元のヤクザと組んで土建屋の経営にも手を広げ、次第に街の顔役として幅を利かせるようになっていったようです。
高校時代は勉強が出来るわけでは無く、「クラスで後ろから5番目ぐらいの成績」であったそうです。苦手な数学が入試科目にない大学の中では最難関の早稲田大学政治経済学部経済学科に進んでいます。大学時代は、映画やパチンコ、麻雀でぶらぶらしていた4年間を過ごしたとのことです。
大学2年の夏休みから父の資金援助で200万円以上かけて世界一周旅行しています。
のちに奥様となる女性と出逢っています。
就職活動で大手商社を受けていますが、ことごとく落ちています。
その後、父親の勧めでジャスコ(現在のイオンリテール)に入社しています。
ジャスコ四日市店で家庭雑貨売場を担当していましたが、働くのが嫌になり9ヶ月で退職しています。半年程友人の家に居候した後、帰省して実家の小郡商事に入社。当時小郡商事が展開していた店舗「メンズショップOS」で取り扱っていたのは紳士服などの男性向け衣料が中心でした。
12年経営に携わる間に、洋服の青山やアオキなどの郊外型紳士服店が業績を拡大したため、後発を避け、安価で、日常的なカジュアル衣料の販売店を着想し全国展開を目指していきます。カジュアルに拘った理由は紳士服のように接客を必要としない、物が良ければ売れるという点が自身の性に合ったためと言っています。
1984年、父の後を受けて小郡商事社長に就任。「ユニークな衣料 (clothes) 」ということで「ユニーク・クロージング・ウエアハウス 略称ユニ・クロ)」と銘打って、広島市にその第1号店を開店します。当時の1号店は、有名ブランドを安価で販売する形態でした。ユニクロで買い物をするのは「恥ずかしい」との評があった。そのため店舗の周りにはユニクロのオリジナル買い物袋を持って歩くのを恥じた客が商品を別の袋に移し替える状況があったそうです。また、そのような状況の中、ブランドに偽物が混じっている事件が起こり、ますますユニクロの評判を落とし苦境に追い込まれました。これを契機としてオリジナル商品開発を始め、その後中国地方を中心に店舗を拡大していきます。
1991年、ユニクロがやっと波に乗り出します。この年、社名を「ファーストリテイリング」に変更。2002年、柳井氏は代表取締役会長兼最高経営責任者 (CEO) に就任します。いったん社長を退くも、2005年には再び社長に復帰。グループ各社の会長職を兼務しています。
柳井氏の経営観
ファーストリテイリング、ユニクロがグローバル展開され、独自の経営観を披露しています。
柳井氏は、ユニクロの特に若手社員に対して、『海外に行ってくれ』と繰り返し言っているようです。
彼の意図は次のような意図があります。
「僕が若い社員にそう伝えるのは、本当の意味で経営者になってほしいからです。それができないのであれば、当然ですけど、単純労働と同じような賃金になってしまう」
「僕は将来、本当に若者が活躍できる世の中になれば、25歳以上は全員対等に評価すべきだと思っています。25歳くらいまでに基本的な考え方を決めて、努力を重ねて35歳くらいで執行役員になる。そして45歳くらいでCEOになるのが、正常な姿だと思っています。だからこそ、若いころに甘やかされてはいけないと思っています」
との考えを語っています。
若い世代に期待しているのですね。そしてご自身の海外での経験から、若い世代の内に柔軟な思考を育てたいのかもしれませんね。
彼のスタッフの経営者を育てたい気持ちが伝わってきますね。
柳井 正氏の数々の名言
「全部変えない限り生き残れない。今の若い人はバブル崩壊後の世界しか知りません。親の給料がどんどん下がる環境で育てば、安定を求めるようになるのかもしれない。けれども、それが起業家精神や事業欲、自分で生活して家庭を営むんだという人間として本来あるべき欲を阻害してしまった。」
「もっと危機感を持って仕事をしないといけない。」
「ほとんどの人はチャンスをチャンスだと思わずに素通りしてしまう。」
「あくまでも現場は宝なんです。だからわが社の場合、極端な話、店長の方が社長よりも偉くないといけない。店長を最終目標に位置づけ、店長という職に誇りを持ってもらいたいんです。」
柳井正氏の経営哲学と戦略
柳井氏は、自身の経験と失敗から学び、それをビジネスに活かしました。
彼は「すべて自分でやらなければならず、商売人としての力をつけることができたのだ。そしてその時に、自分で商売をやっていこうと決意するのである。」と述べています。
また柳井氏は、「信頼」を経営の原理原則として最も重要としました。「信頼」は経営にとってすべてなのだそうです。
柳井氏は、「使命感を持ってできることを探すことが大切だ」と述べています。彼は、自分が主体的になって使命感を持って取り組めば、そこには必ず信頼が生まれると考えています。
柳井氏は、協力工場を通じて自前の製造能力を駆使することで、従来半年かけていたリードタイムを数週間まで短縮しました。これにより、売れ筋商品だけを量産し、徹底的に回転させることで売り上げを何倍にも伸ばすことができました。
また、既存の有名ブランドを取り扱ったことで起きたトラブルを解消しながら、ユニクロのオリジナルブランドの制作に取り掛かりました。オリジナルブランドを作ったことで少しずつ売上が回復して、中国地方を中心に店舗数を増やすことに成功しました。
終わりに
いかがでしたか?
柳井氏の奇想天外の発想面白いですね。スタッフ一人一人を経営者に、という思想は、他の経営者に見られない特徴かと思います。
それにしても、ユニクロの店内は柳井氏のそういった想いが沢山詰まってるからなのか、ほんとに他の洋服店とはまったく違う雰囲気を感じさせられます。
ユニバーサルの雰囲気があるのはもちろんなのですが、スタッフの働く姿勢もどこかユニバーサル的な感じを受けます。