こんにちは!

ツタンカーメンと言ったら誰もがあの黄金のマスクを思い浮かべます。またツタンカーメンには幾つかの謎がありますよね。

ツタンカーメンの墓は、王の墓としては規模が小さい、ツタンカーメンの墓は王の墓ではない?ツタンカーメンの死因について多くの謎がある、と言われてます。

今日はそんなツタンカーメンに纏わるお話をしていきたいと思います。

ツタンカーメンとは

ほとんど世界中の誰もが知るツタンカーメンについてですが、歴史をお伝えしていきたいと思います。

ツタンカーメンは、 紀元前1341年頃 – 紀元前1323年頃の古代エジプト第18王朝の統治者ファラオの中の一人です。

彼は8歳か9歳の時に即位し、その治世は約10年間でした。彼の治世は短かったものの、彼の墓が1922年に発見され、その中から出土した大量の財宝や美術品が発見されています。

エジプト新王国時代、第18王朝末期の最後の直系王族です。

若くして亡くなった悲劇の少年王として、また副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、エジプトのファラオの中で最も人々に親しまれています。

1922年にハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見するまでの1992年まで、彼の在位期間が10年弱と短かったことと、ツタンカーメンの名前は削除されていたこともあり、人々にほとんど知られていなかったようです。

遺物は約5,000点以上にも上り、そのことがキッカケで、エジプトへの関心が再び高まります。現在カイロ博物館に所蔵されているツタンカーメンのマスクは、今でも同館のシンボルの一つとなっているとのことです。

また、これも謎の一つとされてるのですが、ツタンカーメンのミイラの発見に関わった数人の人物の突然の死は、ファラオの呪いのせいだとする噂がありました。

真相はどうなんでしょうね。

ツタンカーメンの副葬品は、1961年以降、ヨーロッパや北米、オーストラリアなどの美術館に貸し出し展示されています。日本でも、1965年に東京国立博物館など、2012年には上野の森美術館などで展示されました。

ツタンカーメンの父はアクエンアテンで、母は父親の実妹である「若い方の淑女」でした。乳母はサッカラに墓があるマイアと呼ばれる女性です。

ツタンカーメンの王妃は異母姉のアンケセナーメンでした。

しかし、ツタンカーメンの家族については、彼の生きたアマルナ時代の記録が異端として、ほとんど後世に抹消されてしまっているため、正確な事実は不明で、諸説あるともされてます。

考古学者吉村作治(よしむらさくじ)氏の一説によると、夫婦仲は良かったとされてます。

ツタンカーメンとアンケセナーメンに子供がいたことを示す直接的な資料はありませんが、ツタンカーメンの墓から発見された2体のミイラ化した胎児が発見されたそうです。2010年2月に行われたDNA鑑定の結果、ほぼ間違いなくツタンカーメンの娘であることが判明しています。2011年に発表されたコンピューター断層撮影による研究では、一人は妊娠5か月で、もう一人は妊娠7か月であったとのことです。なお、彼の妻であるアンケセナーメンと思われる可能性の高いミイラも見付かってるとのことです。

ツタンカーメン王墓の副葬品に描かれている絵画などのいくつかの資料から、ツタンカーメンとアンケセナーメン夫妻は比較的自由な生活をしていたとされてます。ツタンカーメンは優しい性格で、さらに知的で活発で、特に狩りを好んでいたとのことです。時々、妻のアンケセナーメンと一緒に、鳥狩りなどをしていたとされてます。

ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で王位に就いてファラオとなりました。幼い彼は両者から強い圧力を強いられ、治世3年か4年の時、両者の助言によって伝統的なエジプトのアメン信仰の再興に踏み切ってます。ツタンカーメンの父アクエンアテンは、自身の名前をアメンホテプ4世からアクエンアテンに変え、息子であるツタンカーメンも「アテンの生き写し」を意味するツタンカーテンと名付けられました。しかし、ツタンカーメンが王位に就くと、彼はアマルナからテーベへ首都を移動させ、アメン神や他の神々への信仰を復活させました。この行動は、エジプトの宗教的な秩序を回復し、国家の安定に寄与したと考えられています。

この時代ツタンカーメンは、「トゥトアンクア・テ・ン・」と名乗っています。これは、「アメン神の生ける似姿」という意味です。王妃アンクエスエンパーアテンもまた同様に「アンクエスエンアメン」へと改名しています。さらに、首都をアケトアテンからメンフィスに移しています。彼は主神をアテンからアメンに変え、これまでの一神教から多神教に戻しました。この信仰復興により、混乱していた世の中は静まりを見せました。

凄いですね、一王が宗教を変え、世の中を変えていったのですね。

彼のファラオとしての最初の行動は、父アクエンアテンをアマルナから王家の谷に再埋葬することでした。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるという慣習があったため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化されました。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、最高級のレバノンスギを使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾しました。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されました。

ツタンカーメンが王に即位したとき、神々の神殿は荒廃し、草の生い茂る丘となっていたようです。神々はこの国を見捨て、祈りも聞き届けられなかったとされてます。王位に即いたツタンカーメンは、純金のアメン神像を作り、他の神々の像も純金で作り、その聖所を新築し、供物を絶やさないようにしたそうです。町ごとに役人の子どもたちを神官に任命し、神殿の施設と職員両方の充実をはかったのだそうです。その結果、神々は喜び、王に生命と支配権が与えられたとのことです。

ツタンカーメンの多信教信仰の復活に伴い、アテンは神の一柱に戻ります。ツタンカーメンの棺厨子と黄金の玉座にはアテンが描写されています。これは彼が多神教信仰に戻す宣言以前の制作だと推定されていますが、他に、多神教復活後も、ツタンカーメンはアテン信仰を捨てられなかったとの説もあります。

また、妻・子女の画像の椅子にもアテンが描かれています。

ツタンカーメンの黄金マスクについて

誰もがよく知るツタンカーメンの黄金のマスクですが、その歴史的・芸術的価値から、非常に高い価値が付けられているのはもちろんのこと、販売品ではないのですが、推定金額、およそ300兆円~1000兆円とも言われています。現在このマスクはエジプトの国宝となっています。

マスクはエジプト神話の来世の神であるオシリスに似た顔を持ち、高さ54㎝、重量10㎏超、半貴石で飾られています。マスクの両肩部分には、『死者の書』にある古代の呪文が神聖象形文字で刻印されています。

このマスクは元々、女王ネフェルネフェルウアトンのために制作されたものと考えられています。彼女の王号アンクケペルウレーの名が、マスクの内側部分にあるとのことです。マスクは二種類の金合金を含んでいます。顔と首の部分には、明るい色合いの18.4カラットの金が、マスクの他の領域は、22.5カラットの金が使われています。

マスクの顔面は、標準的なファラオのイメージを表しています。頭飾りはネメスです。ツタンカーメンの王の称号であるホルス名、空と太陽を司る神の保護下にあることを示しています。これは「生まれつきの喜びをもたらす強い雄牛」を意味します。頭頂には、下エジプトと上エジプトにおけるツタンカーメンの統治をそれぞれ象徴する、コブラとハゲタカの王章を冠しています。耳にはイアリングを掛けるためのピアス穴が開けられていますが、これは、現存する古代エジプトのほぼすべての工芸品において、女王や子供たち用の品物に見られる特徴とされてます。

マスクには彩色ガラスと宝石、半貴石が象眼されています。またこれらは、目の周囲と眉にラピスラズリ、両目は水晶、瞳孔に黒曜石、紅玉髄、長石、ターコイズ、アマゾナイト、焼結水晶セラミック、その他の石からなっています。

1925年に発見された時、青いラピスラズリが象眼された重さ2.5㎏の細長い黄金のあごひげがあり、組紐のような効果をもたらしていましたが、マスクから分離されてしまってます。あごひげに関してはその後も取れてしまったり接着にもズレたりしたという話しがあります。

マスクの背面には守護の呪文が、刻印されてるそうです。

マスクが展示されるとき、通常は外されていますが、ビーズのレックレスが付属しています。これは、端に蓮の花とウラエウスの留め金が付いた、金と青色のファイアンスの円盤形ビーズから成る三重のネックレスです。

最後に

いかがでしたか?

少しツタンカーメン王の歴史について知識が深まりましたか?

ツタンカーメンの生涯は、宗教との関連が大変深かったものと思われます。

父の影響により壮絶な人生を送っていたものと思われます。

あの黄金マスクからは想像出来ない壮絶な苦しみもあったのではと思わされます。

しかし、ほんとにあの黄金のマスクはテレビでみてもインパクトありますよね。一度お目にかかりたいものです。