沖縄の首里城
こんにちは!
沖縄の首里城と言ったら鮮やかなあの建物を直ぐ思い浮かべる方は多いと思います。
2019年残念ながら火災に見舞われましたが、なんと首里城が過去に火災に見舞われた回数は5回なんです。
あの素晴らしい建物は、ゼロのところから再建を何度も繰り返してきたのですね。
ほんとに首里城の存在は大きいですね。
今日はその首里城に関わった歴史上人物のお話しをしていきたいと思います。
2024年4月7日に沖縄戦不参加の米軍人宅屋根裏から、琉球国王肖像画が発見されたとヤフーニュースに掲載されてました。
FBIは、略奪品と確認したとのことです。
この肖像画は、2024年03月14日に返還されたとのことです。
当時、「沖縄の宝」が返還されたと知事は語っています。
発見されたのは沖縄ではなく、アメリカなんだそうです。
そして発見されたのはこの肖像画1点だけでなく、全部で22点なのだそうです。
この肖像画は、「御後絵(おごえ)」と言われるもので、御後絵の現存が確認されたのは戦後初なのだそうです。
御後絵は、国王の姿をひときわ大きく描いたもので、その権威を示しています。
沖縄県によると、2001年に米総領事館を通じ、連邦捜査局(FBI)の盗難美術品ファイルへの登録を申請したところ、2023年、FBIから御後絵らしきものが見つかったと照会があり、本物と確認されたとのことです。
沖縄戦の混乱で米国に持ち出された可能性が高いとのことです。
この肖像画は、第13代琉球国王「尚敬王(しょうけいおう)」の御後絵ですが、今日は琉球王国時代の最も栄えた時期の尚真王(しょうしんおう)について、お話していきたいと思います。
尚真王(しょうしんおう)とは?
尚真王は、1465年生まれ。今から約500年前に生まれました。
簡単に言うと、尚真王は龍王国の土台を作った方です。
初代国王尚円王の子で、第二尚氏王統で、第3代国王です。
父は尚円王(しょうえんおう)、母は宇喜也嘉(オギヤカ)です。
妃は尚宣威王の長女です。
在位期間は、1477年(成化13年) – 1527年(嘉靖5年)です。
童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。童名とは、生涯を通して親族や友人などごく親しい仲で使用される呼び名です。
神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。
1476年に第二尚氏王朝を開いた尚円王が亡くなり、実子のマアカトダルが幼かったため、王弟の尚宣威が王位に就きます。ところが半年後に行われた即位式で新国王を讃えるはずのキミテズリ神からマアカトダルを讃える神託を下されます。
これにより、宣威王は退位し、12歳のマアカトダルが尚真王として即位します。その後、約50年にわたり統治していきます。
これは王府の女官に力を持っていた母后オギヤカの陰謀と考えられていました。
12歳と若くして王になった尚真王は、当初は母后が政務を見ていたという記録が残されています。
しかし、50年にわたった尚真王の最大の事跡は、中央集権体制を確立し、第二尚氏王統の権力基盤を安定させた功績を残しています。
尚真王の中央集権体制は、各地に割拠して力を持っていた按司(あじ)を首都の首里に集居させ、地方には代わりに按司掟という役人を派遣して領地を管理させました。
首里に住む按司には領地に応じた収入を保証しました。按司には位階が与えられ、身分に応じてハチマキの色やかんざしの種類が決められました。
尚真王は、地方制度を改革し、現在の市町村に相当する地域を間切し、字に相当する地域をシマとしました。
また神女を聞得大君(きこえのおおきみ)の元に組織化し、各地のノロをその統制下におきました。
聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、国王と王国全土を霊的に守護するものとされました。そのため、主に王族の女性が任命されています。琉球全土の祝女の頂点に立つ存在で、命令権限を持っていました。
初代の聞得大君には王の妹の月清が就任しました。妹の霊力で政治を行う兄を守護するというおなり神信仰です。同時に神祇面での中央集権化でした。
さらに、中央官庁には王を政治の補佐をする三司官(世あすたべ)を置きました。
1500年(弘治13年)には八重山諸島で起きたオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年(嘉靖元年)には与那国島を征服し、版図を拡大しました。宮古・八重山から奄美に至るまで琉球王国に服属するに至りました。
臨済宗を琉球に伝えた芥隠承琥に帰依し、第二尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に円覚寺を創建した。
士族の教養のために三味線を奨励しました。これは凄いですよね!
尚真王の凄さとは?
尚真王の凄さは、彼は名君として優れた指導者として知られていました。
彼の業績は今もなお称賛されています。
長期政権の基盤を確立したことで有名です。
約50年間にわたり、琉球王国の最高権力者として君臨し、中央集権体制を確立し、権力基盤を安定させました。
また貿易においては、中国との貿易を重視し、琉球王国の経済的な発展に寄与しました。彼の治世中に、琉球は中国との交易を通じて豊かな文化と繁栄を築きました。
尚真王の外交的な手腕と経済的な知恵により、琉球は国際的な舞台で存在感を示し、外国との交流を深めました。
琉球は尚真王時代において圧倒的な存在感を示していったのでしょう。
尚真王は文化の興隆にも寄与し、臨済宗を琉球に伝えた芥隠承琥(かいいんしょうこ)に帰依し、円覚寺を創建しました。
彼の凄さは信仰心の深さです。
霊的側面に深い関心を持ち、霊的な物を重んじていました。
尚真王は仏教の教義や修行を尊重していました。
神女・ノロの組織化を行いました。
神女は祭祀や祈りの役割を担い、神々や祖霊に仲介する存在です。彼は神女たちを中央官庁に組み込み、神職の役割を強化しました。
ノロ(祝女)は、琉球神道における女性の祭司です。彼女たちは地域の祭祀を担当し、御嶽(うたき)と呼ばれる場所で祭祀を司っています。琉球神道は、琉球王国を中心に信仰されてきました。
神話や自然崇拝を重視していました。
尚真王は姉妹の霊力を頼りに政治を行う兄を守護するおなり神信仰を推進しました。
この信仰は中央集権化とともに、神祇面での統制を強化する一環でした。
またこのことは大変興味深いです。
尚真王は自身の墓所である玉陵(たまうどぅん)を築きました。
玉陵は「死後の首里城」とも言われ、古い弔いの風習である「風葬」「洗骨」を色濃く残す独特なお墓です。彼は死後も大切に守られました。
終わりに
琉球王国の基盤を築き上げた尚真王の背景は、私の感じたところ、特に霊的な側面に目を向け、琉球王国の文化と信仰を発展させてきたのではと思います。
貿易も同じく。
信仰心を大切にしながら、相手国とのやり取りにおいて、心を通しての深いやり取りだったのではと思います。
三味線を士族に教養としてさせていたところも、部下をとても大切に思っていたことが伺えます。
彼のお墓である玉陵(たまうどぅん)に行ったことがありますが、とても存在感のあるお墓でした。
お墓とは思えない建物でした。
生きている間から自分の亡くなった後のことまで考える王様はやはり、霊的信仰心の深いお方だったのでしょうね。
自分の死後だけでなく、その後もこのお墓に訪れる多くの人のことを思い浮かべていたと思われます。
実際、今も多くの人が訪れています。
首里城、そして実は彼のお墓である玉陵も世界遺産とされています。
そんな世界にも誇れる素晴らしい王国を築いた尚真王にタイムスリップしてお会いしてみたいなと思いました。