1980年代の歌姫「中森明菜」
こんにちは。
1980年代、ポップスからロック、バラードまで幅広くファンを魅了してきた歌手、中森明菜をご存じですか?
ちょうど私の世代は大人気の歌姫でした。
独特な歌唱力と表現力を持ち、彼女の音楽は深みを持っていました。
今日はそんな1980年代の歌手、中森明菜についてご紹介してきたいと思います!
中森明菜とは
2023年に公式YouTubeチャンネルを開設している中森明菜ですが、2か月前に配信されたものが700万回近く再生されるなど、高い人気を保ってます。
そんな彼女の過去をご紹介します。
彼女は1965年7月13日生まれ、東京都大田区の出身です。
幼少期は病弱で体が弱かったそうです。
中学の時は、無邪気で人懐こい子、修学旅行のバスの中ではずっとマイクを握って歌っていた子だったそうです。
また、家族にとっても彼女は「家族の小さなアイドルだった」そうです。
明治大学付属中野高等学校は芸能活動専念のため、中退しています。
1982年、16歳の時にシングル「スローモーション」でデビューしています。
この年は、アイドルの当たり年と言われた年と言われています。このデビューで、「花の82年組」の1人でもありました。また、コメディエンヌとしても活動していた。
2枚目のシングル「少女A」が大ヒットします。
翌年の1983年には、「セカンド・ラブ」「禁区」なども次々とヒットしていきました。1980年代のアイドル、あの松田聖子とも2強を競うほどの歌手です。
その後、「北ウイング」、「飾りじゃないのよ涙は」などこちらも連続してシングルヒットを出していきます。
そして、日本レコード大賞を受賞に繋がる「ミ・アモーレ」と「DESIRE -情熱-」の2曲は連続受賞されてます。
20代にして、トップクラスの実績を収めています。
1980年代のシングル総売上げは932万枚を売り上げるなど最高記録を出してます。
また年間50位以内ランクイン曲数は22曲と多数持っていて、どちらも当時の女性アイドル中で1位でした。
彼女は歌手だけでなく、女優としても活躍されてます。
1985年1月公開の映画、『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務めました。
その後も1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』で主演を務めてます。
他にも、1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』で主演するなどしています。
2002年にはユニバーサルミュージックに移籍しています。
そして、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表。このアルバムはヒットされてます。その後も歌姫シリーズをリリースし、2004年にはプライベートレーベル歌姫レコーズを設立しています。
2010年10月には体調不良により芸能活動の無期限休止を発表していますが、2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦にスペシャルゲストとして出演し、ニューヨークから、4年3か月ぶりに芸能活動を復活しています。
2015年1月には、シングル「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリースしています。
その後も、芸能活動のペースはセーブしつつ、アルバム作品の発売など音楽活動に意欲的に取り組んでいます。
2022年8月、個人事務所HZ VILLAGEを設立と同時に、8月30日に公式Twitterを開始しています。
そして昨今2023年に先ほどもお伝えした公式YOUTUBEを発表しています。
中森明菜の歌声
彼女の歌唱スタイルはとてもユニークです。
強烈なビブラートを効かせたロングトーンとウィスパーボイスを一曲の中で使い分けています。
また彼女はどんなに難しい楽曲でも、完璧に自身の中に取り込んで表現し、その歌の主人公を演じ切ってきたと言われています。そのため、彼女の歌を聴く人は、彼女の人柄がよく分かる、とも言われてます。
中森明菜の面白ろエピソード
彼女の耳の良さは非常に有名なんだそうです。彼女は耳がとても良くて歌っていて、ステージ上の音をコントロールするモニターについて、「帯域の何ヘルツを切って」、と言ってくるほどだったというエピソードがあります。また、彼女は自身の楽曲のセルフプロデュースにも長けていたそうです。それが彼女自身のアーティスト性を高めていった要因の一つとされています。
6人兄弟姉妹たちは、父の名前にちなんで全員が「明」の付く名前で、彼女も同様の命名を受けています。
幼い頃から母親の影響で、母親の大好きな美空ひばりの歌を聞かせられていて、歌い方の手ほどきをされていたとのことです。
また彼女は10年間ダンス教室に通っていました。フラメンコやタンゴのリズムに乗ると生きいきと踊り、将来はダンサーになるのではないかと先生に思われていたそうです。また、幼い頃から衣装にとてもこだわりを持っていたとのことです。
この土台が、唄いながらのあのしなやかな動き、彼女の着る様々なインパクトある衣装に現れていたのですね。
そして、彼女の数ある曲の中でも彼女自身が好んでいた曲は「スローモーション」なのだそうです。しかし、ワーナーパイオニアの音楽プロデューサー島田雄三氏が、「スローモーション」の曲の後、中森明菜にどんな楽曲を歌わせるか悩んでいたところ、当時流行りのヤンキー小説のイメージが、1980年代のヤンキー文化と重なり、その時代の曲に合わせた「小女A」が出てきたそうです。
「そんな時代の気分を感じさせる楽曲を歌わせてみたい」と思い立った曲のこの曲に、中森明菜は最初拒否を示し、「歌わない!」とまで言い張っていました。しかしその後、無理やりレコーディングにこぎつけた曲がこの曲だそうです。
それが良かったのか、悪かったのか彼女が投げやりに憮然として歌い、怒りと虚無感を滲ませた曲が「少女A」でした。
皮肉にも楽曲の狙い通りの雰囲気を醸し出すこととなったのでした。そしてこの曲は、島田氏の思惑通りに大ヒットして、中森明菜の代表曲となったのだそうです。
こんなエピソードがあったのですね。
これをきっかけ足がかりに「ザ・ベストテン」と言って、当時放送されていた人気の音楽番組への出演を果たし、新人賞を獲得することにも繋がりました。
この出来事が彼女にとって良かったのか悪かったのか分かりませんが、彼女にとっても印象深い出来事であったことは確かかもしれません。
中森明菜の性格
彼女の印象は人によって異なります。一部の人々は彼女を「不思議な子」や「やりづらい」と感じていたようです。
中森明菜の印象深い数々の曲
中森明菜の曲はどれもが印象的で一度聴いたら忘れられません。その印象深い数々の曲をご紹介します。
- 「スローモーション」1982年
- 「セカンド・ラブ」1982年
- 「少女A」1982年
- 「1/2の神話」1983年
- 「禁区」1983年
- 「北ウイング」1984年
- 「サザン・ウインド」1984年
- 「ミ・アモーレ」1985年
- 「赤い鳥逃げた」1985年
- 「DESIRE -情熱-」1986年
- 「OH NO,OH YES!」1986年
- 「駅」1986年
- 「TANGO NOIR」1987年
- 「難破船」1987年
- 「TATTOO」1988年
- 「Fin」1989年
- 「忘れて・・・」1992年
- 「予感」2006年
最後に
いかがでしたか?
彼女の数々のヒット曲の背景に予想外のエピソードがあったことも知りませんでしたが、歌姫だからこその苦難も数多くあったことでしょう。
現在YOUTUBEで彼女の歌声を聴くことが出来ますが、やっぱりいつ聴いても彼女の歌声は素敵ですね。
あと、若い時代のキラキラした雰囲気ではなく、とても落ち着いた感じの、お化粧も落ち着いた感じで良い感じの大人の中森明菜が見れていいです。
是非、ご覧になってみてくださいね。