西郷隆盛とは
こんにちは。
今日はあなたも聞いたことのある偉大な人物のお話です。 彼は大変責任感の強い人で、懐の深い人だったようです。
今日は西郷隆盛について、色々お話してきたいと思います。
西郷隆盛(さいごうたかもり)とは
西郷隆盛(1828年1月23日 – 1877年9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人です。 彼は、約260年続いた徳川幕府を倒し、明治政府の成立に貢献した人物の一人です。
彼は薩摩藩(さつまはん)の下級藩士の子として生まれ、後に薩摩藩主となる島津斉彬(しまづなりあきら)にその才能を認められ、重要な地位に抜擢されました。
斉彬は当時の日本で最も開明的な大名として知られていて、西郷隆盛は彼の直接の指導を受け、強い影響を受けました。斉彬の急逝後、西郷隆盛は一時的に失脚しましたが、その後奄美大島に流され、その後再び復帰しました。
この経験は、西郷隆盛がその後の日本の近代化に大きな影響を与えることになりました。彼の才能と努力は、日本の歴史に大きな足跡を残しました。
西郷隆盛の生前の「幕末」とは、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す言葉です。具体的には、1853年のアメリカ海軍艦隊(黒船)の来航から、1868年の戊辰(ぼしん)戦争までの時期を主に指します。
この時期は、日本が西洋の近代化と接触し、その影響を受けて大きく変化した重要な時代です。幕末は、江戸時代から明治時代への移行期で、多くの歴史的な出来事が起こった時期でもあります。
西郷隆盛の功績
1. 薩長同盟の成立
彼は薩摩藩と長州藩の間に同盟を結びました。
2. 王政復古の成功
彼は王政復古の大号令でクーデターを成功させました。
3. 戊辰戦争の主導
彼は新政府軍の実質的な責任者として活躍しました。
4. 江戸無血開城
彼は旧幕府側の勝海舟(かつかいしゅう)と会談を行い、両者は血を流すことなく江戸城を明け渡すことが決まりました。
「維新三傑(いしんのさんけつ)」とは
日本の歴史において、幕末の倒幕・維新に尽力した3人の志士、すなわち西郷隆盛、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)を指します。
彼らは、約260年続いた徳川幕府を倒し、明治政府の成立に大きく貢献しました。
- 大久保利通
西郷隆盛と同じく薩摩藩出身で、明治政府の初代内務卿として、地方制度の確立や殖産興業政策など、近代日本の基礎を作りました。「殖産興業政策」とは、明治時代に行われた日本の産業が発展するように政府自ら行った産業に対する政策のこと。 - 木戸孝允
長州藩出身で、明治政府の内閣顧問として、日本の近代化を推進しました。
彼らは、その時代の社会や文化に大きな影響を与え、日本の歴史を形成する上で重要な役割を果たしました。
西郷隆盛の家族について
彼は生涯で3度結婚し、5人の子供をもうけました。
愛加那(ありかな)との間に生まれた子供たち
└菊次郎
1860年に生まれ、12歳の時にアメリカ留学をしました。その後、日本に帰国し、16歳の時に西南戦争に参戦しました。その後、外務省に入省し、米国公使館などで勤務していました。また、台湾にも赴任し、宣蘭市の繁栄のために力を尽くしました。日本に帰国した後は、第2代京都市長を務めました。
└菊草
12歳頃に奄美大島から鹿児島の西郷本家に引き取られ、14歳の時にいとこの大山誠之助と婚約しました。しかし、結婚後は夫の借金や家庭内暴力により長く苦労したと伝えられています。
糸子との間に生まれた子供たち
└寅太郎
1866年に生まれ、18歳でドイツのポツダム陸軍士官学校に留学しました。その後、陸軍少尉に任じられ、侯爵の位を授かり、貴族院議員に就任しました。また、第一次世界大戦中には東京俘虜収容所長に就任しました。
└午次郎
詳しいことはよくわかりませんが、日本郵船に勤務していたと伝えられています。日本郵船退職後は、叔父・西郷従道の所有地だった渋谷・南平台の土地を譲り受け、ゆっくりとした老後を過ごしたようです。
└酉三
1873年に生まれましたが、残念なことに1903年10月21日に、30才の若さで結核で亡くなっています。
以上が西郷隆盛の子供たちについての情報です。それぞれが様々な人生を歩んだようです。 西郷隆盛の子孫は現在も健在であり、親族の集まりは非常ににぎわっているそうです。
西郷隆盛の性格と趣味について
- 彼は、薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)に見いだされ、その恩義に報いるために忠義を尽くしました。彼は斉彬が病死した際にはその後を追って殉死しようとしたほどでした。
- 彼は大柄な体格を持ち、それに見合うような器の大きさも兼ね備えていました。彼はどんな人の話でも聞き、それを受け入れるだけの器の大きさがあったようです。
- 彼は清廉潔白で、本当に私欲のない人でした。彼は明治政府の高官の堕落に対しても厳しい態度をとり、激しく糾弾もしたようです。
- 彼は強い信念を持っていて、目的のためには手段を選ばないという一面をもっていました。彼は自分の使命が終われば、天は自分の命を自然と奪い去るだろうと考えていました。
- 彼は釣りが大好きでした。奄美大島(竜郷町)でも釣りをするのが好きでした。また、沖永良部島に島流しをされたときは、漁民のリクエストで釣り道具の烏賊餌木を造っていたそうです。
- 彼は狩りも好きで、大きな体で力いっぱい山野を駆け回っていました。猪狩りや小鳥撃ちなど、様々な狩りを楽しんでいました。
- 彼は狩りをするときのワラジも自分で編んでいました。また、味噌づくりや醤油作りも上手だったと言われています。
- 彼は犬が大好きでした。彼は四、五匹の犬を飼っていたそうです。
彼の趣味は豪快なものから、手先を使う器用なもののでき、多彩な趣味を持っていたのですね。 味噌作り、醬油作りも行っていたとのこと、彼がどんな風に作っていたのか、その作業工程を見たい感じがしました。 大きな器を持っていた彼の性格も、素敵な性格だったのでしょうね。
西郷隆盛の困難な時期
彼の困難であった時期と述べたいと思います。
- 彼は、薩摩藩主・島津斉彬の死後に流罪となり、牢に入れられて生死の境をさまよったことがあります。彼はこの困難を乗り越え、後に日本の天下統一に大きく貢献しました。
- 西南戦争の時の明治10年(1877年)に政府による挑発行為によって私学校の生徒たちは暴徒化し、西郷隆盛は私学校の生徒に担がれて挙兵せざるをえなくなりました。彼はこの戦争で敗れ、自刃しました。 これらの困難な時期を乗り越え、西郷隆盛は日本の歴史に大きな影響を与えました。彼の生涯は、個人の力が歴史を動かすことができることを示しています。
「自刃」は、刀剣を用いて自分の生命を絶つことを指します。自らの手で自らの命を断つ行為です。自刃は古代から存在しており、歴史や文化において様々な意味合いで語られてきました。
個人の精神的な苦悩や絶望、社会的な圧力などさまざまな要因によって引き起こされることがあります。その行為が社会に与える影響も考慮する必要があります。彼の行為は、社会に大きく影響を与えました。
最後に
西郷隆盛、いかがでしたか?
彼の人生は波乱に満ちていました。彼は度重なる島での暮らしを経験し、最終的には西南戦争で自刃しました。しかしその後、彼の名誉は回復され、位階は贈正三位となりました。
「贈正三位」は、故人に対して「正三位」の位階を贈ることを指します。「正三位」は、日本の位階制度における一つで、従二位の下、従三位の上に位置します。律令制下では、従三位以上を「貴」と称し、上級貴族の位階であったとされています。
また、勲等との対比では勲一等に値するとされています。 現代では、位階が物故者を対象とする栄典となり、国務大臣経験者や政府の重要官職にあった者、学術分野において多大な功労ある人物が死後に叙せられるのが通例となっています。
江戸無血開城において、血を流すことなく開城できた話からも、彼がどれほど活躍してきたのかが伺えます。西郷隆盛の生涯は、多くの困難を乗り越え、時代の変革に大きく貢献した人物でした。
懐の大きかった西郷隆盛、彼の困難に立ち向かうのも相当な覚悟があったのでしょうね。彼の命をかけた生涯に敬意を捧げます。